と、いうわけで、全部終わったので、現実逃避気味に「書きましたよ」と教えていただいていた
『雨のように星は降りて』を読む。
で、読み終わって、何か書こうか、と思った。自分の手持ちのお話は書いてない人間なんだけど、これは書いておかないとなぁ、と思った。
こういう書きはじめであるいはわかるかもしれないけれど、今回は大絶賛ではなかったりする。いや、もちろんお話は面白くて、個人的にはとても楽しめたんだけど、でも、違和感を覚えた部分もあるので、大絶賛ではないのだった。
なんで、ある意味でこれは贅沢な話。
以下、
ネタバレをするので気をつけて下さい。先入観を持たずに、先に読むのがおススメ。
さて。
まず、北自身が楽しめたかどうかという話からすると、楽しめた。
ラスト一気にキますw
というのは嘘ではなく、本当にラスト一気に来た。具体的には6章の、ガジェットが展開される部分で、SFファンのはしっくれであり、メタでネタであるものが非常に好きな北は「おいおい通常の学園LASかと思ったらそうなのかー!!」とぐぐいっと引きずられてしまう。それこそ、最終の解説で三只さんが書いてらっしゃるみたいに「kaz神話」(って命名しちゃったのは北だったんだっけ、確か。時間が経ってよくわからなくなってきた)のプラットフォームとしてこの話はありうるのかもしれない。
ただ、だからこそ、どこかでうーん、と釈然とせず残った部分もあった。読み手としてなのか、書き手としてなのか、それはわからないけれども(その区別もつけにくいけど)。
その気持ちは、簡単に言うと「あ、すげえ面白いけど反則だー!」ということになる。
この話のキモ部分は、6章でのSF的ガジェットの展開にある、というのに異論は殆どないだろうと思う。
そこではkazさんの話の基調になっている、エヴァのパロディ全体をつなげることができる多重世界の設定(詳しくは前に書いたのでもう書かない)が書かれる上、それをまた内包してしまう可能性まであるような入れ子的な仮想世界の設定まで展開される。それは日本SFの系列で言えば、神林長平がその著作で繰り返し描いてきて、また今でも飛浩隆(祝増刷!『空の園丁』待ってます!)も『廃園の天使』シリーズで扱っている題材で、例えば国外に目を向ければグレッグ・イーガンなどの当代一と言われるような作家も扱っている(『ディアスポラ』は近かった、はず)、ポピュラーだけど、多様な可能性を持っているアイデアだ。
このアイデアをエヴァ二次という部分で使うことの意味(エヴァ二次全体の状況の戯画化とか、大きな物語の復権とか、たぶん書いたと思う。書いてなかったら教えてください、書きます)ということはそれも前に書いたので書かないけど、とっても面白い。アルカもタージエの設定なんか、めちゃワクワクする。
でも、なんだけど、だからこそ、この6章以降と、その前にある5章までとのつながりの薄さが北にはどうしても気になってしまう。
これを読んだ後に
今日読んだスレを見て、こんなレスを見かけた。
512 Name: 名無しが氏んでも代わりはいるもの [sage] Date: 2006/04/02(日) 22:25:20 ID: ??? Be:
「スラーズ・マリーツァ」でも思ったが、
最近のkazはなんか内輪ウケの匂いがするなあ。
「雨のように星は降りて」なんて、基本的には何の変哲も無い
凡庸な学園LASで、内輪ウケとして入ってるちょっとした
メタ小説的味付けが、そうした内輪ウケを好む人にのみウケている、
という感じ(三只が返してるのはそういう反応だよなあ)
北が感じたこととはちょっと違うけど、そんなに遠くない。その前に書いてあったレスとあわせて話をするので、そっちも引用しておく。
511 Name: 名無しが氏んでも代わりはいるもの [sage] Date: 2006/04/02(日) 22:16:26 ID: ??? Be:
>>507
テンプレに無い展開つったら「スラーズ・マリーツァ」だろw
北もそうなのだが、基本的に、kazさんもまた、いったんお祭りが終わった後に現れた人である。こういう書き手さんの例として、ちょっと前に提出用を上げた(もう少し修整して、公開用も書きます。今立て込んでるんで、すいません、もう少し待ってください)二次創作論みたいな話ではココノさんを例に出したんだけど、このようなある程度のパターンが出尽くし、その定番化が始まっている局面において活動する人々は、どうしてもその作品作りにおいて以前の作品の影響を受けずにはすまない。
つまりそこでは純粋な「テンプレに無い」は、ありえない……とは言わないまでも、非常に難しい。この局面での新しさはいつも「『あえて』外す」という側面を持つ。
だから、正確にはこのレスは「テンプレを外す」と書かれるべきだったし(そもそもこのテンプレを使った作品の位置の表示という方法自体、参照されるべきテンプレ=原作からある程度独立してしまった参照系の存在をその前提とする)、kazさんの一連の作品はまさにそのようにあった。kazさん自体、最低要素を使う書き手を自認し、しかしそれにも拘らず一味違った作品を書く書き手として独特の位置を占めていた、と思う。
繰り出されるメタ設定も、そのようなそもそもネタな位置においての作品展開があるからこそ、ギリギリの場所で均衡を保っていられたのではないか、と思う。
で。
こうやって考えてみると、なんで今回の作品に違和感を持ったかというと、後半のメタな設定に比べて、前半の学園LASな部分に、「あえて」――つまりは、普通の設定をひっくり返すための根回しという部分がほとんどなかったことによるのかなあ、と少し思う。もちろん、細かく書けば、それは6章以降にこれだけの大設定が展開されるのに、それを示唆する伏線がほとんどない、というところに行き着くのかもしれない(実は、「いつのまにか昇りきった星は、空の天井一杯に広がっていた」という時点で、この話を終えることも可能なのだ)けれど、むしろそういう技術論みたいな話よりは、そのようなある種の「気分」みたいな話の方が先に来ているんじゃないかと思う。
オーソドックスなお話と、エキセントリックな設定の間にある気分のずれ。
その回避方法はどちらかだ。
ひとつは、エキセントリックな設定を語るときには、オーソドックスな話を語らないこと。
逆に、オーソドックスな話を語るときには、エキセントリックな設定は語らないこと。
(オーソドックスな話を語る時に「あえて」を明示してしまうという方法もある。これも後で書く)
これまで、そのいずれも既になされてきた。
例えば、
『Kirke』『スラーズ・マリーツァ』『"E"』『猫街慕情ハレ日和』『夕凪ナルコレプシー』は前者であり、
『オールド・ファッションド・ラブソング』は後者に当たる。
前者では原作の設定は元の形を留めず、様々に組み替えられている。例えば『夕凪ナルコレプシー』では原作の世界が夢の世界として相対化され、『"E"』『スラーズ・マリーツァ』『Kirke』シリーズについてはエキセントリックな設定自体が中心に据えられ、世界が大幅に組みかえられていて、いずれも、原作の物語自体には必ずしも依拠しない物語として書かれている。それに加えて、例えば『スラーズ・マリーツァ』『わにのゆめ』(お話ではない)などでは、ジャンルの先鋭化の結果、無自覚にその組み換えを行っていると思しき所謂「最低系」作品の戯画化とも言えるような形式すらとっていて、ならばこのような設定を語るには充分だ。
逆に後者では、原作の設定に沿ったとてもオーソドックスな話が語られている。そこでは原作を越えたエキセントリックな設定はほとんど語られず、メタ的な匂いが書かれることがあったとしても、それは物語最後の読者への問いかけ、という範囲で、「あえて」書かれた作品という部分を明示するにのみ留まっている。
しかし、このお話はどちらでもなかった。
このお話の背景にある世界は原作とつながっているわけではなく、あくまでも組み替えられた再構成世界である。でも、それは前半ではわからない。
前半このお話は「学園世界」原作を基にして、いつしかそこから離れていつの間にやら成立してしまった「キャラだけ一緒」な二次創作独自の参照系(いや、好きなんだけどそういうのも。でも位置づけ的にはそうなる)に依拠して成立する作品として書かれる。
そして後半で全容が明らかになったとき初めて、その世界はエキセントリックな設定を中心とした再構成世界であることが判明する。
それは『オールド・ファッションド・ラブソング』のようにずっと原作とのつながりを確保していた作品とも、『夕凪ナルコレプシー』のようにある程度二次創作独自の参照系に依拠しつつもそこを逸脱するという匂いを発し続けた作品とも、『"E"』のようにそもそも表向き原作とは全く異なっている作品とも違っている。
じゃあ違っていたらダメなのか、といえばそうではなく、それは新しい語り方の試みなのかもしれなくて、成功なのか失敗なのか、その判断はわからない。けども、少なくとも個人的には、ここまでくるとSFファンが使っている特殊なオイルとかがないとこのギアチェンジはクラッチがつながらないかもしれないという感じがして、そうなってしまったらつなげられなかった人から「ちょwwwwギアチェンジ急杉ktkrwwwww」とか言われてもそれはそれで仕方ないかな、と思った。いや別にVIPPERじゃなくていいんだけど。
そんな感じで、つーか自分こそこの前話してた時にもタイトルだけ言いやがって早くお話書けって話は棚に上げつつ(すんません、ぼつぼつ書いてます……)、F.O.
ギリギリの場所を歩くのは難しいなあ。